ステートメント
本シリーズは、2020年のパンデミック以後、自宅隔離の時間のなかで開始された。私はネガフィルムを日常的な生野菜とともに湿潤な遮光袋の内部に封入し、そこで生じるカビの繁殖に、フィルム上のゼラチン層を侵食させた。暗所において二年間放置したのち、それらを通常の写真工程に従って現像・定着している。
ネガに現れた黒い斑点は、カビの増殖が残した痕跡であり、黄色の層は、なお残存したゼラチンである。侵食された領域には、物質の内部で進行した連続的な変化の軌跡が刻まれている。他方、残されたゼラチンは、光の届かない環境において沈殿した静止の時間を留めている。ここで現れているのは、単なる腐食と残留の対比ではない。運動と停滞、変成と保存、生成と沈殿とが、ひとつの支持体の上で相互に浸透しあい、計測可能な時間とは別の、厚みをもった持続として物質化しているのである。
隔離の期間、身体は閉ざされた物理的空間のなかに受動的に置かれ、状況に対して無力であり、未来を予見することもできなかった。その経験は、私たちが日常においてどのように時間を知覚しているのかを、あらためて問い返す契機となった。通常、私たちは出来事そのものを直接知覚しているのではない。身体の反応、環境の差異、意識に生じる微細な変化を通して、時間の経過を感受している。しかし、現在の状態と先行する状態とのあいだには、つねに小さな断絶がある。意識はその裂け目を無意識のうちに接続し、連続性を仮構することで、はじめて「時間が流れた」と経験する。
この意味で、時間とは均質に流れる空虚な容器ではなく、知覚と記憶、差異と反復によって構成される出来事の編成である。本作においてフィルム上に起きた腐食は、時間を表象するのではない。むしろ時間が物質の内部で作用し、痕跡としてしか現れえないその運動を露出させる。そこに刻まれているのは、可視的な像に先立つ生成のプロセスであり、意識によって統合される以前の、非人称的な変化の束である。
また、私たちはつねに記号を通じて現実を認識している。知覚されたものは、そのまま受け取られるのではなく、無意識のうちに置換され、翻訳され、意味の網の目のなかへと編み込まれていく。時間を感知するということもまた、この翻訳作用と無縁ではない。意識の表面で経験される連続性は、背後で反復される無数の記号的操作によって支えられている。本作におけるカビの侵食とゼラチンの残留は、そうした翻訳以前/以後の揺らぎを、写真の支持体そのものにおいて示している。そこではイメージは何かを再現するのではなく、時間が物質を通過した事実そのものの痕跡として立ち現れる。
脱ぎ捨てられた皮膚に触れること。それは、失われた身体そのものに触れることではない。しかし、その表皮には、かつてそこに生があり、運動があり、変容があったことが刻まれている。本作が触れようとしているのもまた、すでに過ぎ去った時間そのものではない。時間が去ったあとにだけ残される外皮、すなわち持続の痕跡である。写真はここで、光によって世界を記録する装置である以前に、知覚されえない時間の沈殿を受けとめる膜として現れる。